2016年2月28日開催、2015年度・第6回(通算65回)「集い」報告書

日時:2月28日(日) 14:00〜16:00
会場:福祉センター 3F 第1会議室
内容: ・現状報告
    ・国会中継ビデオ
    ・緊急事態法、明文改憲の関連ビデオなど


 報告が遅くなりました。お許しください。 また、予定した内容は一部を実施し、会員様から寄せられた「3人の飛行士」を視聴したことを報告致します。

 温かい日和に恵まれましたが、他の行事と重なったようで参加者が19名だったのが残念でした。時間的に窮屈になり、感想を述べあう時間が十分ではありませんでしたが、以下のような声と、参加されたお一人から後日感想文が届けられました。

会場での発言
 1, 9月19日に成立した「安全保障関連法」は何としても廃案にしたい。
 2, 夏の参院選で与党の議席を3分の2以下にすることが絶対に必要。
 3, 日本の戦闘機は機体を軽くするために操縦士の命を守るための防備が軽んじられていたことを知った。
 4, 特攻と同様に米国と日本の命の重みの違いの象徴的な事案だと思う。
 5, 戦争は絶対に繰り返してはならないと思う。


寄せられた感想文 ドキュメント「3人の飛行士」を観て

 この映画の3人の飛行士は、日本人の武藤金義、中国人の楽以琴、米国人ロバート・アップルゲートである。この3人の関係は、中国人「楽以琴」を日本人の武藤が撃墜し、その武藤を米人アップルゲートが撃墜した というもの。豊後水道上空で撃墜された武藤の飛行機が発見・引き上げられ、1982年カリフォルニア在住のアップルゲートに知らされたところからこのドキュメンタリー・タッチの映画が始まる。

 この映画は平凡な「戦争映画」のように思っていたが、見終わったあとに感想を述べ合うことによって、我々に戦争がもたらす悲劇を随所にちりばめた作品であるということに気づかされた。その幾つかの場面をお伝えして感想とします。

 1.中国国民党政府の飛行士「楽以琴」は、1937年に始まった日中戦争で自国を攻撃する日本軍機を3機打ち落として、一躍英雄となる。あるとき、自分の飛行機が故障で飛べないというのに、無理を承知で上官の飛行機を強引に借りて、日本軍と交戦、武藤金義に撃ち落された。中国の英雄として立派な墓が立てられたが、1966年から始まる文化大革命で蒋介石の軍であったという理由で破壊され、1990年に復権、墓も再建されたという。戦争は必ず「英雄」を必要とする。

 2.楽以琴は撃ち落とした日本人パイロットに止めを刺そうと近づいた時に聞いた最期の言葉は「お・か・あ・さん」「天皇陛下万歳!」ではなかった。
 3.武藤金義は、見合い結婚をするが、結婚式に出席することができず、新婦だけの結婚式となる。 新婚一週間で出征という話は聞いたことがあったが、新婦だけの結婚式という話しは初めてだった。

 4.軍では階級の違いが生活にも反映して、武藤の妻が栄養不足で母乳が出なくなったとき、少尉に昇進していた金義はその地位を利用して缶詰などの食料を手早く調達できる。戦時中の食料不足の実情を描いているが、兵卒や一般庶民だったら工面は困難だと思われる。銃後の国民が物資不足で日々の生活に困窮していても軍人は階級によって厚遇されていたのだ。

 5.母乳が4日間も出ないのに知らせなかったことを金義が激しく詰問する場面があった。妻は「そんなに怒鳴らないで! 私も赤ちゃんも一緒に戦っているのです」と言い返す。 日本の教育に暴力がまかり通るようになったのは、軍国主義の成立とともにあるという。戦争と男性優位の社会が、戦後も長く続くことになった。この場面は、「銃後を守る」のが国民の心得とされ、定着させられ、戦争反対など唱えることは至難の業であったことを示している。戦争さえなかったら、こういうことは起こらなかったことである。

 6.誕生した女の子には「凱子」(よしこ)と名付けられた。このころの子どもの名には、戦争勝利を願う名が多いが、この字はすごい。
 7. 武藤金義は、横須賀から大村海軍航空隊への転勤を命じられる。戦争の初期は零式戦闘機が活躍したが、米軍にその性能を徹底研究されて、アメリカのグラマン機に遅れをとるようになっていた。日本は、新型機「紫電改」をつくり戦果をあげていた。武藤は飛行訓練の指導のため大村の海軍航空隊に派遣された。

   航空隊の隣には東洋一の規模を持つ第21海軍航空廠が稼動して、「紫電改」や水上飛行機をつくっていた。1945年7月24日、米軍戦闘機の大編成隊が九州に向かっているとの報を受け、武藤らは僅か数機で迎え撃とうとしたが豊後水道上空で撃墜された。武藤の「紫電改」は、海上を滑走するように沈んだため、機体を損傷することなく30数年後に引き上げられることになった。武藤を落とした米人ロバート・アップルゲートも墜落したが、パラシュートで脱出し、海上に落ちたが本国により救出された。

   戦陣訓に日本人は「死んでも虜囚の辱めを受けるなかれ」とか、「咲いた花なら散るのは覚悟、見事死にましょう、国のため」と、死ぬことに美を求める道徳観が植え付けられていた。

 8.「楽以琴」は死んでいく日本人を見て、憎らしげに、この「日本・東洋鬼(リーペン・トウヤンクイズ)」と吐き捨てる。日本も連合国を「鬼畜米英」と蔑んだ。  戦争ほど無意味な行為はない。如何なる戦争であれ、戦後何年を経てもお互いが受けた心の傷は、胸の奥 底に恨みとして受け継がれていても不思議ではなく、世界平和を目指す運動の高いハードルになっているの ではと悲しい気持ちになります。

 戦争のできる憲法の改正には絶対反対です。 2016年3月1日 K・U

(掲載日:2016年3月20日)