行って来ました!!NPT(核不拡散条約)行動報告


行って来ました!!NPT(核不拡散条約) ニューヨーク・サンフランシスコ行動報告
日時:2010年5月1日〜8日  報告:自治労連一般組合 東 よね子

 4月30日〜5月9日まで前後泊含め10日間、NPT行動参加のため、ニューヨーク・サンフランシスコへ、7500人分の皆さんからの心のこもった署名を届けに行って来ました! 2000人署名を目標に、300人程の方に署名のお願いの手紙を出したところ、来るわ来るわ7500人超えてしまいました。個人では全国一という事で、ご褒美として、国連のエクアドル大使との会談、女性のつどいでの日本人3人発言のうちの一人として選ばれる機会をいただきました。どちらもとても貴重な体験で一生の宝物となりました。本当に有難うございました。 ニューヨーク・サンフランシスコの行動を報告します。つたない文ですが、一緒に行動したつもりで読んでいただけたら嬉しいです。

揃いのはっぴで横断幕を持って
マンハッタンで署名
エクアドル大使との会談
女性のつどいで、同時通訳での発言

5月1日 成田発15時。
 空路デトロイト経由ニューヨークへ13時間46分の空の旅。乗り換えのデトロイト空港では同じNPT仲間13人が、重複搭乗券が発行されていたために乗れず、別の飛行機で別の空港に到着するハプニングがありましたが、やっと夜中に全員合流する事ができました。機内泊でしたが時差で一日儲けた感じでとても得した気分。

5月2日 1日目。
 快晴。時差ぼけもなく朝からマンハッタンでの署名行動。でも日本と違い拒否する人が多く、原爆を落としたから戦争が早く終わったとか、日本人は真珠湾攻撃をしたなど反日感情をあらわにした方もいました。のぼりで作った揃いのはっぴ姿は、どこでも好評でした。

 昼からは、15000人のパレード。5年前は完全に道路閉鎖して4万人のパレードが行われたそうですが、今回は、道路片側だけでした。オバマ大統領のプラハ発言に大いに期待していましたが、それに反発する大企業などのスポンサー勢力が、テレビなどで一切知らせないなどの圧力をかけているので参加者が少ないそうです。

 でも15000人のパレードは圧巻でした。ニューヨークは日本の青森と同じ緯度だそうですが、前日と14度の温度差の暑い中、2時間も待たされそれだけでも疲れてしまいました。思い思いの衣装や横断幕でアピールしながらの長い行進で、広島、長崎の市長も先頭に立っての力強い行進でした。

 国連前で署名の到着を待っていたNPT会議議長は、パレードがかなり遅れたにもかかわらず、「私は署名を受け取るために何時までも待つ」といわれ、代表が手渡した署名のほか、国連前の広場に積み上げられた700万近くの署名を「この目で見たい」と警備の警察官が静止するのを振り払い「私は明日から始まるNPTの議長だ」と言い見に行かれたそうでNPTに対する並々ならぬ決意を感じました。私は先頭から最後尾までの2.5kmを写真を撮るため走り回り、いささかその夜はグロッキーでした。

5月3日 2日目。
 雨。同じコースの方は市内観光に。私は米反戦労働者交流集会に参加。急遽第二会場まで設置されるほど参加者が多く、イラン、アフガン反戦運動などの発表があり、オバマ大統領は今までの大統領とは違い、聞く耳を持っている、私たち労働者が大きな声を上げていこう!と訴えられました。

 昼からは、とても大きなすばらしいリバーサイド教会で、(かってキング牧師が「私には夢がある」と有名な演説をした所)平和コンサート。日本から100名を超すうたごえ代表団と、現地の労働者合唱団交えての、平和への心をひとつにしたすばらしい歌声を聞く事ができました。

 終わって同じ場所で、外国の政府関係者とのピース対話集会があり、参加者からの質問にそれぞれの国の方が答えていました。途中日本の志位共産党委員長が傍聴にみえ、促されスピーチをされました。共産党として初めてアメリカから招待されたそうで、歴史的な出来事だそうです。

5月4日 3日目。
 快晴。これが時差ぼけか、とうとう一睡も出来ないまま夜が明けてしまいました。 朝から国連本部へ。中に入るには空港の搭乗時のような荷物と身体のチェックがあり長い行列が出来ていました。又、本会議場に入るにはIDカードを必要とし、それを取得するため志位委員長は、4時間も並んだそうです。

 エクアドル大使との会談は、隣の大使館ビルで通訳を入れた14名が参加し、1時間もありました。エクアドルは昨年米軍との契約を更新しなかったから基地がなくなり、その後よその軍隊は入れないという新しい憲法を作ったそうです。日本はすばらしい憲法があるのに、日米安保条約があるため米軍が居座っているので、継続しない廃棄の運動をしなければと強く思いました。

 会談が終了してすぐ、国連本部でしか買えないお土産を慌ただしく買いましたが、あとでよく見たらメイドインチャイナでした・・・。 昼食もそこそこに、女性のつどいに参加。250人入れる講堂には通路までいっぱいで350人は入ったものの、あとは消防法の関係でだいぶん断ったそうです。外国人10人、日本人3人の発言で、最後のトリを務めました。

 7500人近くの署名を集めた中でのいろんなエピソードを報告し、私の知らないところでドンドン署名が広まり、核兵器廃絶も夢ではなくなったと発言したところ、割れんばかりの拍手をいただき頑張った甲斐があったと実感しました。終わってすぐ、今度は時間帯が重なっていた自治労連組合の集会へ、同じビルの中を走って行き、30分間だけ参加できました。ちょうど広島市長の挨拶中で、日本でもなかなかお会いする事のない方とニューヨークで同じ思いで会えるとは感激でした。

 又、日本の若者達がとても多く参加しており、世代交代が確実に出来てきていると、嬉しく思いました。 夕方一人ホテルへ帰り、今度は自分自身へのご褒美として、本場ブロードウェーのミュージカル.ライオンキングを観に行きました。日本で観ていたので、英語であっても全然気にならず、さすが本場は違う!と大感激でした。

 ちなみに日本円で9500円くらいのチケットが、ホテルの斡旋業者がブローカーに頼み取り寄せたのが16000円でした。又 睡眠不足で、目を開けて寝るという体験を初めてしました。聞くところによると志位委員長も「マンマミーヤ」のミュージカルを観に行ったそうです。 ニューヨーク最後の夜は熟睡でした。

サンフランシスコ大学の八重桜
サンフランシスコ大学教授と
サンフランシスコ大学生も署名

5月5日  5日目。
 晴れ。ニューヨーク10時発、アメリカ大陸を横断し 6時間44分後には、サンフランシスコへ。着くとすぐ市内観光。坂道で電車が走る光景は、長崎にも似た風景でどこか懐かしさを覚えました。 夜は初めての地下鉄に乗り、地元平和団体との交流会で、用意されていた久しぶりの お寿司やアスパラの胡麻和えに舌鼓を打ちました。原爆の加害者である国で、核廃絶の 草の根運動をされている方々がおられることにとても感動し、主催者の三線にあわせ皆踊りあいました。

5月6日 6日目。
 晴れ。朝から、ローレンスリバモア核兵器研究所見学です。広大な核研究所の周りはテロ防止のため、なにもないバッファゾーンという野球場みたいな広場がありましたが、全部放射能汚染の土壌だそうで、設立後50年間に広島の原爆以上の放射能もれがあるそうです。しかし研究所の周りは道隔ててすぐ一般住宅が立ち並び、設立時は5000人の人口が、今15万人となり癌や白血病、脳腫瘍などの発症率が高いそうですが、土地が安く公園などの設備が整っており治安が良いので、人口は増えているそうです。

  又この地はワインの産地で、研究所の周りは広いブドウ畑で、汚染も懸念されるのでワインの産地は注意して見て買わなければと思いました。研究所は入れないかもと言われていましたが、いろんな模型を置いた研究所内部の展示場所にまでは入れ、パソコンで核爆発のシュミレーションが行われているなどと、館内の案内人が誇らしげに説明されていました。放射能の恐さは殆ど知らされていないようで、被爆国として教えていく義務があるのではと、強く思いました。

ここでもハプニングがありました。珍しい蝶がいたと、張りめぐらされたフェンス外に追いかけて出て、写真を撮っていた同じ仲間の先生が、3台のパトカーに囲まれ警察に捕まりました。通訳の方が入りやっと写真を消してしまう事で解放されましたが、それだけ研究所の周りは警備が厳しく、治安がいいはずです。 最後の夜は同じニューヨーク・サンフランシスココースの皆や現地平和団体の方々との交流会でした。全国あちこちからの参加で、日本へ帰ってからの活動に大いに期待が持てる交流会でした。

5月7日  7日目。

 晴れ。サンフランシスコ発13時05分。 12時間45分の空の旅で成田へ。

5月8日 8日目。
 晴れ。機内泊で15時成田着。 本当に、ハードスケジュールでしたが実りある貴重な体験の旅でした。これも皆様から沢山の署名やカンパ、また力強いメッセージを頂いたおかげだと、本当に感謝感謝です。 40数年間の平和運動の総まとめで、あとはゆっくり過ごそうとNPTに参加したのですが、皆さんと行動を共にする中、やけぼっくいに火が付いたみたいに命尽きるまで平和運動は続けていかなければ!!と決意新たにしております。今後もよろしくお願いいたします。

(掲載日:2010年6月30日)