日時:2010年10月17日 、 案内人:東 よね子
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戦争遺跡の案内・説明中
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戦車の市中行進
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NPT(核不拡散条約)ニューヨーク行動参加に引き続き、広島、長崎原水禁大会にも参加し、これで私の平和活動は暫く休止と思っていた所、長崎平和委員会例会として、大村の基地・戦争遺跡探訪の案内をする羽目になった。資料探しをしていたら本好きの主人が殆どの資料を持っており、早速調べると驚くことばかりだった。
私が小さい頃、両親が畑を耕すと、よく骨みたいな物が出てきて、円盤投げだ、剣だと子供同士遊んでいたが、あれは、人間の骨盤や、大腿骨ではなかったか・・・。母は、近くに牛の屠殺場があつたからその骨だと言っていたが・・・。弟や妹と一緒に行っていた立派な大きな建物の中の安い床屋は、大村大空襲時焼け残った司令部本廠の建物だった。
又、築山に登り草スキーだと遊んでいた場所は、防空壕だったのだ。広い原っぱに8畳ほどのコンクリートの広場がいくつもあり又、あちこちに同じ大きさの大きな窪みがあり、格好のままごと遊びの場所だった。あれは、工場の部屋べやで窪みは爆弾が落ちた跡だったのか・・・。
いろいろ調べるうち実家は、大村大空襲跡地の、真っ只中で、その中で私は育ってきたのだ。この案内役を頼まれていなかったら、母から戦争の話はいろいろ聞いてはいたものの、戦後生まれの私は、戦争とは他人ごとのように思ってきたかもしれない。改めて戦争の怖さ悲惨さを知ることとなった。
10月17日探訪日は、ちょうど、自衛隊大村駐屯地で、陸・海・空の合同記念行事やパレードがあり、見学が出来た。誇らしげに有毒ガスや放射能汚染地区に出動できる化学防護車です、千綿までも飛ぶ大砲です、と説明する若い隊員。それらは人殺しの道具でしかないのに・・・。
パレードは、街なかで平然と銃を担ぎ、隊列を組み行進する隊員。それを拍手で迎える家族や来賓者。子どもは誇らしげに父親を見上げていました。鈍い地響きを上げ通り過ぎる戦車やミサイル搭載車。まるで戦場にいるかのような錯覚さえ覚え、身震いをしてしまいました。
今後も軍都として栄えていくであろう大村で、私は何をするべきかを考えさせられる一日でした。
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