第3回(通算47回) 「集い」参考資料 (順不同) (2012年9月30日開催)


掲載日:2012年8月2日

第3回(通算47回) 「集い」参考資料 (順不同)

城山三郎氏 (1927年8月〜2007年3月)

 徴兵猶予にもかかわらず、「軍神 杉本五郎中佐」の著「大義」に感銘を受けて大日本帝国海軍に志願入隊。海軍特別幹部練習生として特攻隊である「伏龍部隊」に配属になり、訓練中に終戦を迎えます。 この間の貴重な体験を土台とした小説が多く、特にその著「大義の末」を書くために小説家になったと言われています。


受賞歴
 ・ 1957年(昭和32年):『輸出』で第4回文學界新人賞。
 ・ 1959年(昭和34年)
    『総会屋錦城』で第40回直木賞。
    『落日燃ゆ』で吉川英治文学賞、毎日出版文化賞。
 ・ 1996年(平成8年):『もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界』で第44回菊池寛賞。
 ・ 2002年(平成14年):朝日賞。


主な著作
 ・『総会屋錦城』(新潮文庫)
 ・『男子の本懐』(新潮文庫)- 金解禁政策に賭けた濱口雄幸と井上準之助を描く。
 ・ 『勇者は語らず』(新潮文庫)- 本田宗一郎をモデルとした人物を中心に自動車産業を描いた。
 ・『官僚たちの夏』(新潮文庫)- 高度成長期における代表的通産官僚であった佐橋滋がモデル。平松守彦や堺屋太一がモデルと思われる人物も登場する。
 ・『黄金の日日』(新潮文庫)- NHK大河ドラマ原作。
 ・『大義の末』(新潮文庫)- 自伝小説
 ・『指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく』(新潮文庫)
 ・ 『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件』(角川文庫)
 ・『男たちの好日』(新潮文庫)- 森コンツェルン創業者森矗昶がモデル。
 ・『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』(講談社文庫)
 ・『落日燃ゆ』(新潮文庫)- 元内閣総理大臣・広田弘毅を描く。
 ・『雄気堂々』(新潮文庫)- 明治から昭和にかけての大実業家・渋沢栄一がモデル。
 ・ 『盲人重役』(角川文庫)- 島原鉄道役員・宮崎康平がモデル。
 ・『素直な戦士たち』(新潮文庫)
 ・『硫黄島に死す』(新潮文庫、1963年)- 『文藝春秋』 に発表。西竹一がモデル。
 ・『日本人への遺言』(講談社)- ノンフィクション作家高山文彦との対談の記録。
 ・『そうか、もう君はいないのか』(新潮社、2008年)- 遺稿を再編集
 ・『どうせ、あちらへは手ぶらで行く-「そうか、もう君はいないのか」日録』(新潮社、2009年)
 ・ 『城山三郎と久野収の「平和論」』(七つ森書館、2009年)- 共著:久野収、編:佐高信
 ・ 『逆境を生きる』(新潮社、2010年)- 講演録


杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。「天皇信仰の極北」とされる遺言本『大義』で知られる。

*杉本五郎著「大義」
   「汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、尊皇精神ある処、常に我在り」また曰く「天皇は 天照大御神と同一身にましまし、宇宙最高の唯一神、宇宙統治の最高神。国憲・国法・宗教・道徳・学問・芸術乃至凡百の諸道悉皆 天皇に帰一せしむるための方便門なり。即ち 天皇は絶対にましまし、自己は無なりの自覚に到らしむるもの、諸道諸学の最大使命なり。無なるが故に、宇宙悉く 天皇の顕現にして、大にしては上三十三天、下奈落の極底を貫き、横に尽十方に亘る姿となり、小にしては、森羅万象 天皇の御姿ならざるはなく、垣根に集く虫の音も、そよと吹く春の小風も皆 天皇の顕現ならざるなし。釈迦を信じ、「キリスト」を仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。宇宙一神、最高の真理具現者 天皇を仰信せよ。万古 天皇を仰げ。」


生涯
 広島県安佐郡三篠町(現在の広島市西区打越町)生まれ。大正8年(1919年)陸軍士官学校(33期)本科入校。大正10年(1921年)同校卒業。歩兵少尉に任官、再び歩兵第11連隊附となり、陸軍戸山学校、陸軍科学研究所で短期間の教育を受ける。また軍務の傍ら広島から毎週1回は必ず三原市にある臨済宗大本山・仏通寺に修養に通い出征までの9年間これを続けた。本来個人の精神的な修養原理である禅を国家論や道法論、人生論に持ち込んだ。しかしこうした矛盾に微塵の疑いもさしはさむ事なく独自の思想を形成していく。

  昭和6年(1931年)、満州事変では第5師団臨時派遣隊第2大隊第8中隊長として出征、中国天津方面で軍事行動ののち帰還。この後、出世コースである陸軍大学校受験をしきりに薦められたが、「中隊長という地位が私の気持に一番よく叶っている。これ以上の地位につきたくない」と拒否、「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」と願った。実際は、上官の受験への強い勧めに抗しきれず、一度だけ陸軍大学を受験している。結果は不合格であった。

 息子同然である兵の身上をよく調べ、貧しい兵の家庭へは、限られた給料の中から送金を欠かさなかった。昭和11年(1936年)勃発した二・二六事件に対しては「皇軍の恥」として、共産主義に対すると同様に不忠の汚名をかぶせ非難した。翌昭和12年(1937年)支那事変(日中戦争)が勃発。同年8月少佐に昇進、第2中隊長のまま、長野部隊に属し中国激戦地に従軍。同年9月、山西省宛平県東西加斗閣山の戦闘に於て戦死。岩壁を登って敵兵約600の陣地へ、号令をかけながら突撃。手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。38歳の生涯であった。

大義
 死の寸前まで四人の息子への遺書として書き継がれた20通の手紙を妻へ送っている。これに接した同志らによって、これは私蔵すべきでない、と20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938年)5月に刊行された。これが青年将校や士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ね29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。本書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。文中、幾ヶ所も伏字があり、これは杉本の思いがあまりにも純粋で、当時の権力者をも容赦せず、軍部の腐敗や軍記の緩みなども手厳しく批判した箇所といわれる。

 本書にも登場する仏通寺の山崎益州管長は「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長としても、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった」と述べている。

 大山澄太の『杉本中佐の尊皇と禅』、山岡荘八『軍神杉本中佐』、城山三郎『大義の末』、奥野健男『軍神杉本五郎の誕生』、中桶武夫『軍神杉本五郎中佐』などの関係本がある。近年、城山がブームとなっているため、城山に多大な影響を与えたといわれる杉本もよく取り上げられている。

*尚、「大義」は現代日本思想大系 4 ナショナリズム 吉本隆明(編集解説) 市立図書館蔵
   11月〜12月初めに予定。憲法を巡る状況は日々厳しくなっています。改めてハガキにてご案内致しますのでお誘い合わせいただき。多数のご参加をお待ちしております。