沖縄の旅(大田昌秀先生を偲び、平和を願い)


大田昌秀先生と一緒(2012年11月29日)
沖縄国際平和研究所前にて(2017年9月30日)

沖縄の旅(大田昌秀先生を偲び、平和を願い)
日時:2017年9月30日(土)〜10月3日(火)

 国は沖縄県民の反対の声を無視し、辺野古埋め立て工事を強行。最近、新たな希少サンゴが見つかった海で、護岸工事用の石材を海上搬入。手続きを省いた無法な行為を強行。(11月15日付けA新聞記事)  つい1ヶ月前の10月11日、東村高江へ通じる幹線道路わきの私有牧草地に米軍大型輸送機が墜落炎上。  新聞に沖縄の基地関連の記事が記載されない日がないほど、沖縄県民は日夜米軍に悩まされ続けています。

  自らが住む地域に米軍基地が駐留することに反対の一方で、沖縄の現状を見て見ぬふりはあり得ません。 沖縄問題を他人事とせずに米軍基地による多種多様な被害に泣く沖縄の皆様の心に深く寄り添いましょう。

  日本政府は長きにわたり沖縄をある時は「捨て石」に、ある時は「要(かなめ)石」として「アメとムチ」を使い分けながら沖縄県民の気持ちに真に寄り添うことなく今日に至っています。  そうした日本政府に抗議の声を挙げたお一人が、今年6月12日に亡くなられた故大田昌秀先生(92歳 元沖縄県知事・元参議院議員・琉球大学名誉教授)です。

  大田先生とは2012年の沖縄訪問の際に1時間30分、先生が主宰される「沖縄国際平和研究所」内の自室書斎でお話をさせていただきました。鉄血勤皇隊員として苛烈な沖縄戦体験当時のお話しを皮切りに、現在に至るまでの沖縄が背負わされてきた苦難の日々のお話しが続きました。87歳(当時)をお迎えとは思えない記憶力とこれからの沖縄があるべき姿のお話しに、沖縄の現状を憂い、且つ郷土・沖縄を愛する熱い想いが伝わってきたことを思いだします。(大村市九条の会ホームページ、2012年12月13日付け「沖縄訪問報告」を参照ください

  そうしたご縁で「沖縄国際平和研究所」の会員となりました。大田先生は「大村市九条の会講演会の講師」に呼んでくれれば「行きますよ」と答えてくださいました。しかし、私どもの力不足で「集い」にお招きできぬまま先生をお見送りすることになったのが悔やまれてなりません。

  7月26日の県民葬に列席したい気持ちはやまやまでしたが、安倍首相が追悼の辞を述べると知り断念する。 いつの日か「沖縄国際平和研究所」訪れ、先生の生まれ故郷久米島にも足を運び、これまでの先生の偉大な 業績に対する感謝とご冥福をお祈りすることにしました。その日は突然に訪れました。研究所から9月30日の土曜日をもって閉館するとの知らせが届きました。

  閉館日に研究所を訪ねると共に、久米島はじめ時間の許す範囲で沖縄各地に足を運ぶことにしました。  縁とは不思議なもので、沖縄に向かう2日前に沖縄北部「大宜見村」の「九条の碑建立実行委員会」 から、建立が正式に決まったとのお便が届いたのです。 「大宜見村に九条の碑」建立の話しは昨年12月3日のA新聞で知ってはいたのですが、これで沖縄に足を 運ぶ目的が一つ増えることになりました。

  沖縄に現存する「九条の碑」は下記の通りです。(カッコ内は建立年) 時代順に那覇市(85年)、読谷村(95年)、西原町(03年)、石垣市(04年)、南風原町・宮古島市(共に07年)です。今回の「大宜見村九条の碑」沖縄に7ヶ所存在することになります。沖縄の皆様方の「平和憲法」を守りたいとの強い想いの表れと言えるでしょう。

牧港高架橋(2017年8月28日撮影写真)
人材を以って資源と為す(大宜見村役場前の碑)
ヘリコプターのホバリング訓練
ヘリコプターのホバリング訓練

  日本本土でも「平和憲法」の大切さが再認識され、公有地に「九条の碑」が建立される日が待ち望まれます。

  前置きが長くなりました。辿った旅の足跡を以下に記します。 簡潔を旨としたつもりですが、私的な旅ですので随所に情緒的な記述があることをご容赦ください。

9月30日(土)晴天
 長崎空港〜那覇空港  その足で沖縄国際平和研究所へ。閉館を惜しみながら閲覧。退出の際に前回の沖縄訪問で知り合った平和運動家M氏とばったり出会う。那覇泊。3日間連泊。全て素泊。

10月1日(日)晴天
 浦添へ。 国道58号線浦添北道路(牧港)で橋梁架設現場を見学。鋼PC混合箱桁ラーメン橋という「コンクリート桁」と「メタル(鋼)桁」を中央部で接合させる難しい工法です。(この工事見学は別建ての牧港の高架橋見学」ページの写真や説明文をリンク先から参照

  この現場では大村工業高校建設工業科を卒業のK君(57歳)が技術指導者として働いていました。 見学後は一路、伊江島を目指し、島内の展望所や戦時中の「海上特攻用塹壕跡」などを見て回る。

 続いて「大宜見村」へ。 日曜日のため役場は休み。当直の方に建立予定地を教えてもらう。役場に隣 接する「霊魂之塔」のすぐ横の空き地が建立場所。役場前には「人材を以って資源と為す」と書かれた 「碑」が立っていました。私が一時勤務した工業高校の校訓「技術者たる前に人間たれ」を連想する。

 その後、高江へ。途中ですれ違った米軍の輸送トラックの大きさにビックリ!日頃目にする自衛隊トラックのふた回りは大きい代物。第四ゲート前にはテント一張りのみ。中には現地担当者と思われる女性1人と激励に訪れたと思われる男女3氏。抗議行動も行われていないのに道路反対側には警備会社のガードマン10数人が直立姿勢で警備の任務についていた。無駄ではと不思議に思う。 次に「辺野古」を目指すはずだったが、「辺野古」の抗議行動は4時で終わるから今からでは間に合いませんよとの助言をいただき、仕方なく那覇の宿を目指す。

 この日の高江行き来に通ったのが数日後に米軍輸送機が墜落した現場直近の道路でした。 K君が運転してくれる車で移動する一日でした。(感謝)  那覇泊

10月2日(月)晴天
 那覇・泊港〜渡名喜島経由(停泊15分を利用して下船)〜久米島着(所要時間約3時間20分)。乗船往復切符を買う段で失敗に気が付く。月曜日は帰りの便がないとのこと(?)。那覇の宿は連泊 契約なので、久米島に泊まるわけにゆかず復路は飛行機。旅費予算が狂う。

 泊港を出港して暫くすると海の色が美しく変化してゆく。濃い青色に近い。深い海なのだろう。渡名喜島手前の海上で一機のヘリコプターがホバリング訓練をしているのを目にする。海上での遭難救助訓練であろうか。遠目には空中に完全に停止しているようにさえ見える。

 渡名喜島港に入港時も、久米島港に入港時も船は大きく島を回り込み西側に開けた岸壁に着岸する。東風(こちかぜ)を避けるためなのか。外海の厳しさがこうした港の位置決定になるのかと思う。 久米島港着。大田先生の墓所は簡単に教えて貰えると思っていたのだがとんでもない思い違いで、大きい島だった。タクシーで市役所へ向かう。タクシー代が気になるほど遠いところに立派な市庁舎。

  総務課で墓所を尋ねるが、詳しいはずの課長さんが不在。課員から聞いた大まかな情報を頼りに島内バスで移動。  結局は先生の墓所をここと確認できぬまま、広い墓所全体に向かって合掌する他なし。再び島内バス で飛行場に向かう。

  広いサトウキビ畑に森山良子さんの「さとうきび畑・ザワワザワワ」を口ずさむ間 に空港着。空港には人が一杯。シニアー特割なので空席があるか心配したが無事搭乗することができた。 久米島空港離陸〜那覇空港着。所要時間 約35分。 那覇泊  

0月3日(火)晴天
 宿〜上泉〜(バス)〜安座間サンサンビーチ下車。徒歩4分。安座間港〜15分で久高島・徳仁港。久高島滞在時間は2時間余りしかない。港の側の畑で鍬を持つ年配女性に挨拶。手を休め気さくに話してもらう。15歳当時に戦渦に遭って辛酸をなめたという。憲法九条のことを聞くと「戦争は絶対いかん」との答えありで嬉しい限り。次に自転車を借り、案内板に従いピザ浜〜伊敷浜の海岸沿いにペダルを踏む。

 途中で小さな器を持つ老婦人と出合う。「海水ですか?塩を作るのですか?」と問うと「そうだ」との 答え。昔はもっともっと大きな缶に運んだそうで、欠かせない毎日の仕事だったらしい。沖縄の「おば ぁー達」は働き者だということを納得。もっとも、頑張る母親は日本中、世界中共通だろう。

久高島 港前の案内標柱
久高島 イシキ浜の案内板

 2時間はあっという間。琉球開闢(かいびゃく)の祖「アマミキヨ」が天から舞い降りて、沖縄の国つくりが始まったとされる聖地「久高島」とお別れ。船、バス、モノレールを乗り継いで空港へ。

  那覇空港を飛び立ち一路長崎へ。窓側の席が取れたお蔭で、眼下に見える奄美諸島、大隅諸島や九州 の山々の美しさを堪能する1時間30分の空の旅でした。

  今回の沖縄訪問はこうして無事に終わりました。 貴重な教訓を頂いた「大田先生」の研究所訪問、先生の生誕地久米島で先生とは私なりのお別れができ、卒業生が係る「橋梁架設現場を見学」、伊江島、瀬底島、大宜味村、高江に足を運び、琉球の聖地「久高島」にも立ち寄れました。行楽の旅ではありませんでしたが、精神的には100点満点の旅でした。 それぞれの関連写真をご覧ください。

** 参考  大田昌秀先生の著書
 1953年6月出版の「沖縄健兒隊」〜2017年6月出版の「人生の蕾のままに散った学徒兵・ 沖縄 鉄血勤皇隊」の間の共著・寄稿を含め83冊にのぼります。

結び
 今回の沖縄訪問は「沖縄基地問題」「日米地位協定」、そして日本外交を左右している「日米安保条約」を本来あるべき「日米平和条約」を目指す運動の必要性を改めて感じました。 地道な運動によって一日も早く沖縄の、そして日本のあるべき姿に近づけなければならないと思う旅になりました。 「高校生平和大使」が掲げる「微力ではあるが無力ではない」を我がモットーにして進みます。

** 余禄です。 沖縄3泊4日の旅で4キロ痩せました。まともに口にした食事はこの間、「沖縄そば」二杯に菓子パン2個のみでした。よく歩いた割には、暑さに閉口して水分補給ばかりで空腹感が丸でなかったのです。 肥満体の私としてはもう10日程、沖縄各地を巡っていれば、すっきりした体型になれたのではと思いました。しかし痩せるより先にダウンだったことでしょう。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、「年寄りの冷や水」の格言ありです。
2017年11月15日 大村市九条の会 谷川記

・関係ページ:牧港の高架橋見学

(掲載日:2017年11月15日)